2009年1月9日金曜日

キリストに触れて生きる(マルコ52)

第52回目 マルコの福音書15章42節~47節(2008年9月7日)

「キリストに触れて生きる」


***イエスの十字架刑の日の夕方。安息日の前日であったので、アリマタヤのヨセフは思い切ってピラトのところへ行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ピラトはもうイエスが死んだのかと驚き、百人隊長に本当に死んだかを確かめてからイエスのからだをヨセフに与えた。ヨセフはイエスを取り降ろして亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に収めた。入り口には石を転がしかけておいた。***


十字架刑とは、想像を絶する苦しさです。体の3点(右手、左手、両足)を棒に縛られ、大きな釘を打ち貫かれます。致命傷をあえて避けることで、長時間激痛を与えるのです。資料によると、その三日後に息を吹き返した人もいるといいます。それほど、簡単に死ねないようになっているのが十字架刑です。

これが行われたのは、安息日の前日でした。ユダヤの安息日は土曜日です。それは、神のために一日を捧げる日でした。ユダヤの1日は夕方6時から始まります。34節、イエスは午後3時に亡くなったとあります。つまり、そこから次の日が始まる3時間の間に起きたことが今日学ぶところのシーンです。

安息日には、ユダヤ人は食事も作りません。服を着るのは良いが、ベルトは締めてはいけないとか、タバコを入れるのは罪とか、鏡を見ても良いが、白髪を抜くのは労働にあたるからダメとか、そういう細かいことを定めていました。

43節、アリマタヤのヨセフが登場します。この人は、議会議員でした。ピラトの元へ行き、イエスの体を頂きたいと願ったとあります。ピラトはこのユダヤ地方を納める総督であり、裁判官でもありました。通常、十字架の罪人は、木から降ろされたのちそのまま放置されます。特に安息日であったので、誰も片付けることは出来ません。放置されてしまえば、イエスの体が野犬や鳥に食べられてしまうでしょう。(今でもアンデスではあるそうですが、鳥葬といって、鳥や野犬に遺体を食べさせるという文化があります。)

ヨセフは、サンヘドリンの有力な議員で、神を待ち望む人でした。サンヘドリンの裁判において、多くの偽証がなされ、イエスに対して死刑にあたる罪は見当たらないとされたのです。弟子達は、その一部始終は全く見ていません。既に逃げてしまっていましたから。しかし、ヨセフはその全てを見ていて、後でマルコに教えたのかもしれません。

ヨセフはイエスを信じていました。そしてその遺体を滅茶苦茶にしたくないと考えたのでしょう。「思い切って」とありますが、相当悩んだ上に引き取りに向かったと思います。彼は「決断」をしたのです。このようなことをすれば、イエスの仲間として自分も殺されるかもしれない状況だったのですから。44節、ピラトは驚いたとあります。何日もかかって死ぬだろうと思っていたのでしょう。十字架上で、6時間しか生きていなかったのです。39節、イエスの死を確認した百人隊長は「この方はまことに神の子であった」と言っています。

何故、このようなことが細かく書かれているのでしょう。イエスの死。それは、イエスを策略にはめたユダヤ人には喜ばしい知らせだったでしょうが、一つ困ったことがありました。復活の預言がされていたからです。それでユダヤ人たちは、イエスが実際に復活された後に、噂を流したのです。イエスは実際に死んでおらず、仮死状態だったのだ。または、遺体を誰かが盗み出したのだ、と。ですから、マルコははっきりと書いておかねばなりませんでした。イエスが死んだことは間違いのないことだと。それを確かめたいと思えば、百人隊長に聞きにいけるようにと、この箇所を書いたのです。

ピラトはヨセフにイエスの遺体を与えました。ヨセフは有力者で金持ちだったので、自分の墓を持っていいました。当時の墓は、洞穴に安置するというものでした。入り口を大きな石で蓋をします。遺体には、一枚の長い高価な布を巻きました。カトリックでは「聖骸布」といって、イエスの遺体を巻いた布だとされるものが宝物として残っています。

2人のマリアが、イエスの遺体が墓に収められるのをよく見ていたとあります。あとで腐食を防ぐための油を塗りにいくつもりでした。彼女達はもう一度イエスに会いたいと願っていたのでしょう。とても女性的といえるかもしれません。男性の弟子達は最初から逃げてしまっていました。女性は、捕らえられにくいということがあったかもしれませんが。

アリマタヤのヨセフは、「神の国を待ち望んでいた人」であったと聖書に記されています。これは、イエスを信じていたというだけの話ではありません。神の国とは、神の支配という意味です。神による完全な支配の中で、いつか自分も生き生きと生きることができるということに希望を持っていたのです。誰かに支配されて生きるとは、こんな嫌なことはありません。今も世界では独裁国家で庶民が苦しんでいます。独裁はよくないことでしょうか。実は、独裁国家で平和な国も存在します。ある中東の王国は、税金、教育費がまったくかからないということで庶民はとても幸せに暮らしているといいます。

一方、民主主義であっても、まるで独裁国家とそんなに変わらない現実があるのではないでしょうか。アメリカは、民主主義こそが素晴らしいのだといってイラクを攻めました。イラク人を助けるのだと言って。民主主義が良いなどと、誰が決めたのでしょうか?共産主義や独裁よりも本当に良いものなのでしょうか?独裁でも良い国はあるのです。

教会にもいろいろあります。監督制の教会では、全体の長はかつて総理と呼ばれていました。今は会長と呼ばれますが、その人が全てを決めます。会衆制では、メンバーの1票で決められていきます。長老制では、教会で長老が何人かいて、そのうちの一人が牧師です。全て長老たちによって決められ、信徒には権限がありません。

聖書は、こういうことについては、何も語っていません。ただいえるのは、神の支配が一番いいということです。間違いがないからです。神のみが全てにおいて善であり、聖い方だからです。独裁国家の問題は、独裁する人が人間であることなのです。誰が政治をやっても独裁をしたとしても、人間がやっていることです。旧約の時代、人々は王様が欲しいと願い、神を拒みました。イスラエルでは、サウル、そしてダビデが王として立てられました。この時点から、ユダヤ人は問題を持ち始めていったのです。

神に支配にいることが良いことであり、聖いということなのです。その中にいることを、ヨセフのように望むものでありたいと願います。身の危険を冒してまで、イエスの体を引き取り、墓を提供し、主の復活をサポートし、導いていった人。次の16章ではいよいよ復活についての記事ですが、復活したところだけを見ても意味がありません。それは、単なる蘇生ではないからです。

今日の箇所を読むと、ヨセフがどれほど主の復活のために貢献したかが分かります。1度きりしか聖書に登場しない人ですが、イエスを信じ、神の支配を願う姿は、永遠に聖書に刻まれました。

私たちが望むものは何でしょうか。それが分からなくて悩むのではないでしょうか。お金、健康、それらは確かに大切なものですが、それだけではないはずです。神の支配、それこそが私たちに本当に必要なものなのです。