2007年6月29日金曜日

神の家族として(マルコ10)

第10回目 マルコ3章20節~35節  (2007年4月22日)

「神の家族として」

***イエスについて「気が変になっている」という噂がたって、心配した家族・・母マリアや兄弟達・・がイエスに会いにやってきた。律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言っていた。イエスの家族が人をやってイエスを呼ばせたとき、イエスは言った。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか。見なさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行なう人こそ、わたしの兄弟、また母なのだ」***


マルコは、この福音書をとても急いで書きました。そのため当然、いろいろ抜けがあるようです。私たちは、それを補充しながら読んでいかなければなりません。この箇所の登場人物は、イエス、身内のもの、そして宗教指導者たちです。

イエスは30歳まで、大工として生活しました。9人の兄弟がいて、かなりの大所帯ではありますが、当時としては平均的です。福音書には、母と兄弟達についての記事はありますが、父についての記載はありません。早くに亡くなったのではと言われています。(イエス12歳の宮詣の出来事以来、父ヨセフについての記事はありません)イエスは長男ですから、大工として、下の兄弟たちを育ててきたのでしょう。30歳といえば、普通は結婚をしています。ですから、当時としては、ちょっと変わっていたといえるでしょう。

ある日突然、家を飛び出し、巡回伝道者になります。しかし、経済的にいえば、それはとても馬鹿馬鹿しいこと。大工をしている方が、よっぽどましな生活が出来たはずです。そして、イエスの言動は、時の為政者のカンにさわりました。イエスが神の言葉を語れば語るほど、その命は危なくなりました。イエスが殺されるという噂がたち、身内が心配して会いにやってきたのです。

ところで、私たちは、何かの情報を得るとき、目から入るのが8割、耳からは1割なのだそうです。現代は、従来のテレビなどに加えてデータ放送などの影響で、あまりにも情報過多になりすぎてしまい、疲労を覚える人が増えているとか。私たちは、見た情報によって、ほとんど決定してしまうのです。最近話題になった、テレビ番組の捏造問題を見れば明らかなように、目で見たらすぐ信じてしまいます。外の情報が、全てになってしまうのです。

マリアはイエスを産んだとき、何を思ったでしょうか。結婚前に、聖霊によってイエスをみごもったマリア。それ以前に、天使に直接会うなど、彼女は特別な存在でした。イエスがどういう人物だったのか、一番近くで見てきました。一旦イエスが、自分から離れて、皆がイエスを批判するようになると、その噂を聞いてマリアは衝撃を受けたのです。イエスとずっと一緒にいた母、兄弟ですら・・・

22節には、宗教指導者である律法学者たちが、「イエスはベルゼブルに取りつかれている」と言った、とありますが、ベルゼブルとは、シリヤの宗教上の悪魔です。彼らは、イエスが癒しを行い、人々に勇気を与えるその様子を見て、これは悪霊のしわざに違いない、と考えました。イエスの話をたくさん聞いたにも関らず、その「状況」だけ見て判断したのです。

その人の話しをじっくり聞き、理解するのではなく、パッと見た目をみて相手を判断するというのは、人間の弱さです。律法学者たち、そしてイエスの家族。この両者は全く違う立場であり、イエスにとっては敵と味方ではありますが、両者とも同じ判断力しかありませんでした。私たちは、イエスの話を聞いています。しかし、心で受け止めようとしているかどうかは別です。

28、29節に「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし聖霊を冒涜するものは永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」とあります。イエスの為したことは神の為したことであるのに、悪霊のしわざといった、これは赦されないことです。厳格に、神の業と悪霊の業を見分けよ、と言っているのです。そうでなければ大変なことになります。

イエスによって、全ての日は、主が造られ、祝福されています。結婚式場には、仏滅プランといって、仏滅の日は格段にお値打ちになるコースがありますが、主の目には、良い日悪い日という区別もなければ、良い人悪い人という区別もありません。それらのことを、全部イエスは打ち壊されました。十字架によって。それが、基盤となっているのです。

私たちは間違いは、病気などの悪いことが起こると、「日や場所が悪かった?」と考えることです。そのように私たちをおとしめようと、一体誰がするのか?神が? であれば、それは最悪の神です。聖霊は私たちを祝福しようとしているのに、それを認めようとしないこと、それが「聖霊を冒涜する」ことです。

人間的な思いで、「これは良いことではないか」と思うことがあります。臓器移植について、キリスト教会では結論が出ていません。神が造られたものを、勝手に人間がいじってよいものか、議論しています。自分の心臓がたとえ弱かったとしても、それが与えられたことには意味があるのではないか。癒しは大事です。しかし、癒されなければそれは悪霊のしわざ、ということではないはず。

私たちは、自分に都合の良いことは「良」悪いことは「悪」というのです。私たちは、全てのものを見た目で判断してはいけません。イエスは「わたしの言葉を聞け」といわれるのです。

33節に、母の取次ぎに対してのイエスの言葉、「私の母とは誰だ」これは、「親子とは何か」という問いかけです。親子の関係は、自分で選んで決めたわけではありません。神によって与えられたものです。何によって繋ぎ合わされているのでしょうか?血でしょうか。いいえ、どれほど愛しあおうとしているかによって決まるのです。血の繋がりには意味がありますが、それに依存してしまうことがあります。「親子だから分かるでしょう?」となってしまいます。私たちは認識したことがないのです。それは、神によって造られた関係だということを。相手を見て、「神が造った存在だ」というように、見たことがないのです。

私たちは、「夫婦とはこんなもの」というイメージで相手を見ます。しかしイエスは、「私の兄弟、姉妹、母とは、わたしの言葉を聞いて行なうものだ」といわれます。神の言葉を共有し、行なおうとしているから、本当の親子になれるのです。神が介在し、イエスが私を造り、私を導いてくださる方ということを信じる。そのとき、親子、夫婦、家族になることが出来ます。そして、それは、「良い、悪い」の判断基準では無くなります。神が私を贖い、導かれたこと。そして、相手も、神が贖い、導いておられる。だから家族なのです。

これが真実であれば、私たちをつまづかせるものは、何もありません。相手を「神が造り、贖い、導いていかれる」存在として見ることが出来るからです。そして、私たちは、私たちをとりまく環境の全てを神に聞くことが出来ます。私たちの人生は、そして関係は、全く変えられます。本当の家族とはこのことです。イエスに聞きましょう。私たちも世の中も、全く変えられるのです。