2007年7月4日水曜日

たとえで話されるイエス(マルコ11)

第11回目 マルコの福音書4章1~20節 (2007年4月29日)

「たとえで話される主イエス1」

***イエスの語られた、種まきのたとえ話。ある種は、道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ある種は、岩地に落ち、土が浅いのですぐ芽を出したが、根がないので枯れてしまった。ある種は、茨の中に落ち、茨が伸びて芽をふさいでしまったので実を結ばなかった。ある種は、良い地に落ち、30倍、60倍、100倍の実を結んだ。***


いつものようにイエスが群集に向かって話しをし始めました。12弟子とその他の弟子たちが回りをかこんでいます。(ルカの福音書では、近くにいる人々を皆、弟子と書いていますが、マルコはもう少し厳密で、12人だけを弟子と書いています。)たとえ話をされた後、14節からはその「解き明かし」です。イエスが「たとえ話」と「解釈」をするというのは実はめずらしいこと。イエス自身による注釈は、他ではあまりありません。

15節~20節を読むと、たとえで語られた「土地」とは、人の「心」のこと。「種が蒔かれる」とは、「聖書の言葉を聞く」ということです。4種類の土地のことが語られます。この時代の種まきは、1個1個丁寧に蒔くというようなことではなく、人がパーッとまいたり、あるいはロバに種の入った袋を負わせ、その袋には穴があいていて、ロバが歩くと種が落ちるというようなものでした。そのような蒔き方なので、当然畑ではない、道(アスファルトのように固い)や岩地(岩盤の上に砂が少しあるような)、いばらの中などに落ちる種もありました。

4種類の土地は、それぞれ誰なのか?私はどの土地か?ある学者は、そういうことではなく、最初は、固い道のようであったが、失敗を重ねつつも、だんだん良い土地に変えられていく、つまり「成長」を現しているのでは、と言っています。日本は、まさに「耕されていない土地」なのでしょう。「あなたは罪人だ」というメッセージの前に、「あなたは神に造られた最高の作品である」という理解をさせること、それこそが「耕し」です。実をならすためには、良い土地を作ることが必要なのです。時間をかけて・・・

ところで、このたとえ話や解き明かしについては理解できても、イエスの言葉でどうしても分からない箇所があります。10-12節イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちがたとえについて尋ねた。そこでイエスは言われた。「あなたがたには神の九人の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち返って赦されることがない』ようになるためである。」(新共同訳聖書)

弟子達が種まきのたとえ話について意味を尋ねたら、上のようにイエスが言ったのです。『』内は、イザヤ書の引用です。この後、26節から、そして30節からも他のたとえ話が語られています。ところで「たとえ話」とは、いったい何のためにするのでしょうか。たとえで話さざるを得ない状況があります。

30節からのたとえは、「神の国」についてですが、「神の国」を実際に見せられないので、たとえで話すのです。そして、たとえ話とは、曖昧なものです。例えば、「○○さんは、スマップの中居君に似ている」と言った場合、本質を否定しつつ、似ていると言っているのです。イメージは伝わりますが、そのものではないということです。

「たとえ」は、分かりやすくすると同時に、分かりにくくしています。解釈なしでたとえ話を聞くと、全く違う取られ方をしかねません。3節からの、種まきのたとえ話。当時、食料事情については皆の関心事でしたから、全ての人によく理解できる話だったでしょう。イエスは、種まきの「あたりまえのこと」を話しました。皆にとっては、「・・・・・それで?」という感じだったことでしょう。多くの人は、その意味を考えたでしょうが、分からないのです。

「外の人々には、すべてがたとえで示される。彼らが、それを理解しないために・・・・」とイエスは語ります。「神の国の秘密」と、新共同訳では訳されているこの言葉、新改訳聖書では、「奥義」と訳されています。奥義とは、謎のことです。新約聖書はギリシャ語でかかれていますが、もともとはアラム語から訳されています。イエスが実際に語っていたのは、アラム語でした。(十字架の言葉、エロイ・エロイ・ラマ・サバクタニ、はアラム語です)

現代では、その文字と文法は分かっているものの、使われていません。アラム語からギリシャ語に翻訳されるときに、少し厳しい言葉への訳になったようです。たとえを語られたとき、それが何のことかすぐにわかる人たちと、全く分からない人たち、に分かれます。どこで違いが出るのでしょうか。10節を見ると、イエスが一人になられた時に弟子たちが尋ねに来た、とあります。主のところに来た一団があったのです。そしてそれは、いつもイエスに付き従っている人々でした。

ある同じ環境の中だけで理解できる状況というものがあります。そのお互いだけがわかる言葉。。。プロのミュージシャンが、レコーディング中に「レコーディング行ってくる」と言って席を外しました。レコーディング中に、レコーディングに行くとはどういうことか?レコーディング、すなわち「おといれ」というわけで、トイレに行ってくるという意味なのだそうです。

神の言葉は、自分で聖書だけ持って、自分だけで読んで暗唱するほどに読み込んだとしても、分からないのです。研究者として、深く聖書を学んでいながら、クリスチャンでない人々がいます。神の奥義は彼らには分からず、永遠に謎のままで終わります。教会で読まないので、本当の意味で理解することが出来ません。教会とは、イエスを信じる人々の群です。共に礼拝を捧げ、交わりを通し、学びを通して、神のためにする奉仕の中で、積極的に宣教することを通して、神の祝福、恵み、それらを実感していくのです。

世の人々にとっては謎です。しかし、あらゆる教会の目的を通していく中で、見えないものが見え、聞こえないものが聞こえるようになります。イエスは、「彼らは最初から滅ぶ」という意味でそれを語ったのではありません。9節「聞く耳のある者は聞きなさい」といわれました。「聞く耳を持って聞け!聞く耳を持って聞かない人たちが多くいるのだ。心を開いて、わたし達と共にいって、ありとあらゆる主の働きを通して、「神の国」を見よ」主は、いろんな角度から「神の国」を語ろうとされます。私たちは、日々の信仰生活の中で聞かなければ、それを感ずることは出来ないでしょう。わたしたちの為す全ての奉仕の中に、神の約束が、神の業がひそんでいるのです。