第50回目 マルコの福音書15章1節~20節(2008年8月24日)
「私たちが選ぶものは」
***夜が明け、祭司長たちは最高法院全体で相談した後、イエスを縛って行きピラトに引渡した。ピラトが「おまえはユダヤ人の王か」と尋問するとイエスは「それはあなたが言っていることだ」と言われ、その後は何も答えなかった。祭りでは一人の囚人を釈放することになっており、群集が押しかけてきて要求し始めた。イエスではなく、バラバを釈放せよ。イエスを十字架につけよと彼らは叫んだ。兵士らはイエスに紫の服を着せ、茨の冠をかぶせ侮辱したあげく、外へ引き出した。***
前回に引き続き、イエスの裁判。祭司長たちはイエスをピラトに引渡し、ローマの法律の下でイエスを裁こうとします。ユダヤの法律では、死刑宣告が出来ないからです。2節、ピラトがイエスに「お前がユダヤ人の王なのか」と問います。新共同訳聖書の訳では、イエスは肯定も否定もされません。「それはあなたが言っていることです」と言われます。新改訳聖書では、「そのとおり」と答えています。これは、ギリシャ語を日本語に訳すときにニュアンスによっていろんな訳しかたがあるからです。
その通りと答えたなら、もうお終いです。政治犯として捕らえられます。つまり、その後の討論の意味がなくなります。そのため、この場合は新共同訳の方が近い意味あいだったのではないかと思います。
「それはあなたが言っていることです」とは、どういう意味だったのでしょう。ユダヤ人にとっての王とは?神にとっての王とは?王の概念がもし違うなら、その問いにYesもNoもありません。議論しているときに、言葉の意味が一致していれば初めて会話は成り立つものです。例をあげれば、福音派の教会でいうところの牧師とは、ある一つの役割を指します。別の教会では全く違う意味を持つことがあるのです。
ユダヤ人にとっての王とは、まさに政治を治める王です。しかし、神にとっての王とは?それは人に仕えるものです。
3節、祭司長たちがいろいろとイエスを訴えます。他の方法でしか、イエスを罪に陥れることが出来なくなってきたからです。ところで、ここ豊田みのり教会は、人間関係というものに重きを置く教会です。生きていく中で一番困難なのが人間関係だからです。人間関係の問題とは、旧約にはバベルの塔の事件があります。神に近づこうと傲慢の罪を犯した人間は、お互いに言葉が全く通じなくなり、世界中に散らされることになりました。
中国で天安門事件があったとき、中国は民主化をし損ないました。ソ連が崩壊したとき、ロシアの民主化は成功しました。どんな違いがあったのでしょうか。彼らはロシア語しかしゃべれなかったのです。民衆と兵士はロシア語でケンカしていましたが、次第に理解し会っていきました。一方中国はとても広く、いろんな言葉があり、軍部と民衆は言葉が通じ合わなかったという現実があったのです。
思いが伝わらないのです。お互い日本語を話していても伝わらないことがあります。罪のゆえに、です。親が子を愛していても伝わりません。そのように、あなたが理解している言葉と、神の言葉とは違うことがあるのです。
何も答えないイエスにピラトは驚きました。イエスの沈黙は何を意味していたのでしょうか。すでに罪で隔絶されたものがあれば、何を言っても誤解、揚げ足取りになることを分かっていて、腹をくくった沈黙だったのかもしれません。
バラバという囚人が釈放されました。ユダヤのお祭りでは、極悪人が一人許されるということがあったのです。ピラトはこの時、イエスを釈放したいと願っていました。なぜなら、イエスが法律的に見て、全く違反のない人だと分かっていたからです。ローマの法律とは、現代の日本がそれを原典としているほど、その時代にあって大変きちんとしたものでした。
よく語られるのは、イエスがエルサレム入場した時には「イエス様万歳!」と叫んでいた民衆が、ここに来て、「バラバを釈放せよ、イエスを十字架につけろ!」と叫ぶほど、心変わりしてしまう人間の罪の恐ろしさです。しかし、こうも考えられます。バラバ党というものがあって、その作戦が、ユダヤ人たちと利害の一致を見たということがあったのかもしれません。
ピラトは「どうしろというのか」群集は「十字架につけろ」14節、なおもピラトは食い下がって、「彼がどんな悪いことをしたというのか」ユダヤ人は答えません。後にピラトを聖人として認定している宗派がありますが、この時、イエスを何とか助けようとしたことからだそうです。ピラトは法に従ってイエスを助けたかったのです。
人間の言葉は、時として全く伝わらないことがあります。罪のゆえに。正しく行おうとしても、そうさせないようにする力も持っています。「イエスを十字架に」たったこれだけの言葉がイエスを本当に十字架刑へと導きました。言葉とは一体、何の力があるのでしょうか。善意を持って話しても、伝わらないことがあります。善意が悪意に変わることもあります。しゃべればしゃべるだけ、誤解を与えることも。
沈黙は金、という言葉さえあります。しかし、黙れば黙るほど、また伝わりません。これが、悪魔に支配されたこの世界です。その中で、イエスが語られるのは「私はキリストだ」の一言でした。
礼拝で詩篇交読ということをします。神の言葉で私たちが会話をするとき、お互いに傷をつけあうことがなく、誤解を与えたり受けたりすることもありません。それは、天国の前味といえるでしょう。
イエスの沈黙。これは、イエスが唯一できることでした。人々の誤解を浮き彫りにし、人々が語れば語るほど、最悪の方向へ進んでいきました。
兵士達が、イエスに紫の衣を着せ、茨の冠をかぶせました。そして万歳と嘲弄した。これは、当時彼らの習慣でした。悪気はないのです。刑罰を受けるものを馬鹿にすることは彼らの習慣としてありました。しかし、習慣化したその言葉が、なんととんでもない言葉だったことでしょうか。
キリスト者として生きるとは、その言葉に耐えるということです。普通の人には全く理解されない生き方です。聖書と他の宗教の一体何が違うのでしょうか。それは、「自己犠牲」、それしかありません。外から見たら、キリスト教もオウムも同じに見えるでしょう。しかし、キリスト自ら沈黙して、十字架にかかっていく、そのような教祖や神は、世界中どこを探しても他にはないのです。
自分もそうなるようにと願うこと、それがキリスト者の生き方です。人々のために私の命を奉げたいという人が増えたら、どんなにこの世は素晴らしい世界になるでしょうか?反対に、オレのために2、3人は犠牲になってもらうという人が増えたら?世界は滅茶苦茶になります。
人々は、「自分の人生、自分のために生きないなら全く意味がない」と考えています。しかし、クリスチャンはこの箇所のキリストの姿を生きたいと願うのです。どんなに迫害、愚弄されても、沈黙せねばならない時があるでしょう。今日のイエスのように。キリストの生き方は世では理解されません。しかし、主イエスは、その行動によって本当のあるべき姿を示されていったのです。
