2008年8月30日土曜日

それでも主は愛される(マルコ49)

第49回目 マルコの福音書14章51~72節(2008年8月17日)

「それでも主は愛される」


***人々はイエスを大祭司の所へ連れて行き、最高法院の全員は、死刑にするためイエスにとって不利な証言を求めたが、どれも食い違った。そこで「おまえはメシアなのか」と言うと、イエスは「そうだ」と言われ、冒涜の言葉だとして死刑にすべきと決議した。ペテロは遠く離れてイエスに従っていたが、「あなたもナザレのイエスと一緒にいた」と口々に人々が言うのを3度も否定した。***


サンヘドリンと呼ばれるユダヤ人の議会。裁判所としても機能し、今日の聖書の箇所はその現場です。51節の「亜麻布をまとった青年」は、マルコ自身のことではないかと言われています。この文脈の中で、唐突に出てきます。

最後の晩餐は、ある金持ちの家の2階で行われましたが、それはマルコの実家だったという説があります。マルコはそこでのイエスと弟子達を見ていたのではないでしょうか。そしてゲッセマネでの出来事も見ていて、客観的事実として、自分が見て、書いたのだと言いたかったのではないかと思います。53節以降、捕らえられたイエスに、ペテロがこっそりとついて行きました。他の弟子達は逃げてしまいました。マルコはペテロの証言を直接聞いて書いたのでしょう。

裁判、議会が一つの目的を持って行われました。イエスを殺すという目的です。最初から自分の思い込みがあって、物事を始めていくということがあります。現代でも、死刑ありきで裁判が進むことが在り得るのです。56節、イエスについての証言が寄せられます。その中には近い事実もありました。「神殿を打ち倒し、3日で建て直す」というものなどです。しかし、議会では、他にもいろんな証言があったはずです。病気の人を癒した、盲目の人を見えるようにした、など・・・しかし、その証言は誰にも受け取られず、イエスを死刑にするための証言のみが求められました。そして、裁判は一旦、暗礁に乗り上げます。証言がどれ一つとして一致しないからです。

大祭司がイエスに「反論しないのか」と問います。実はこれも手です。イエスは沈黙しました。何も答えなかったのです。自分がどんどん不利になっていくときに、果たしてこうも寡黙でいられるでしょうか。主は、これから歩むべき道を全て天の父に委ねています。大祭司がまた聞きます。「あなたはキリストか」と。これは、「あなたは犯人ですか」の意味です。今風に言うなら、神の前に誓って犯人かどうかと問うたのです。そしてイエスは答えました。「わたしはそれです」と。

「わたしが神です」というこの答えは、彼らにとって決定的でした。彼らは、「神に誓って犯人でないといえますか」と問い、「犯人でない」と言うなら、「神に誓って」というのは罪になります。何もしゃべらなくても有罪になります。何故Noと言えないのかと彼らは言うでしょうから。大祭司は衣を引き裂きました。服を引き裂くのは、イエスが神を汚したという意味です。63節、大祭司は、証人はもう必要ではない、これで充分といいました。

ことごとく大祭司の作戦は失敗しています。不利な証拠を並べ立ててイエスを突き上げようとしたものの、それらは全く一致しなかったのです。良い証言も出てきたでしょう。そんな中で、まさか言わないだろうと思っていたことをイエスが口にしました。彼らにとって、その目論見は外れたが、目的は達成されました。

裁判自体は、イエスを無罪へと導いていたことが分かります。デュープロセスという言葉があります。彼らは裁判において、きちんとした手続きをすることを誇りにしていました。そして、決定的な言葉は、イエス自身の言葉でした。

だからこそ、イエスは本当にキリストだと私たちには分かります。あのままだと、無罪にせざるを得ないという情況で、イエスはその後のことまで預言をされています。それをどうしても伝えねばならないからです。イエスは、自分が無罪になる裁判をひっくり返してでも「私がキリストです」と答えられたのです。

ペテロはこの一部始終をきちんと見ていて、マルコに伝えたのでしょう。一人の女中が気付きます。焚き火の明りでペテロの顔が分かったのでしょう。「あなたもあのイエスと一緒にいましたね」71節、呪いの言葉さえ口にしながらペテロは否定しました。この呪いとは何でしょうか。イエスを呪いにかけるということはないでしょう。「自分が呪いをかけられても構わない」という言い方だったと考えられます。そして鶏が二度鳴きました。「二度鶏が鳴く前にわたしを3度知らないというだろう」というイエスの言葉を思い出してペテロは泣き出しました。絶対に主から離れないといいながら、主を否定したことについての涙でしょう。

ペテロは偉いと思います。少なくとも、そこにいたのですから。他の弟子は全て逃げてしまっていました。ペテロがその現場にいたからこそ、イエスの姿をこうして伝えられたのです。そして、自分自身の、哀れで無残、体たらくな姿をペテロ自身が伝えたのです。

後に、聖ペテロ、一番弟子と言われる所以でしょう。ペテロは自分の至らなさをそのように告白したのです。そして、「それでも主は愛される」ということを伝えています。だからこそ告白できたのです。私たちも、自分に対して「それでも主は愛される」事実を疑う必要は全くありません。

少しずつ成長していけば良いのです。イエスと共に。クオヴァディスという物語にもあるように、後にペテロは逆さ十字架につけられ殉教していきます。こんな私でも愛して下さるという確信によって強められ、そこまでの信仰が養われたのです。

オリンピックで銀メダルをとったレスリングの井調さんの言葉は感動的でした。「4年間ここまでやってきたことが宝。ここにたどりついたことが感謝。」どんな結果だろうと彼女は喜んだことでしょう。金じゃないとダメというのが日本人のおかしなところです。皆が金メダルをとるというのは無理な話であり、意味がありません。それぞれの賜物を認め、成長を喜ぶ、成長の実感、それが宝であることを覚えたいと思います。