2008年8月14日木曜日

終わりの日を前に(マルコ47)

第47回目 マルコの福音書14章22節~31節(2008年8月3日)

「終わりの日を前に」


***過ぎ越しの食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りをして、それを裂き、弟子達に与えていわれた。「これはわたしの体である」また杯を取り感謝の祈りをして言われた。「これは私の血、契約の血である」また、イエスはペテロの離反を予告され、「今夜鶏が二度鳴く前に三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた。***


主の晩餐のシーンです。弟子達はイエスを救い主と分かってはいたものの、充分な理解には至っていませんでした。24節、「これは多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とイエスは言われました。契約とは、信頼を真中において、複数の人と約束、ルールを守っていこうというものです。聖書はまさに神と私たち人間が結ばせて頂いた契約です。旧約、新約の「約」は、契約という意味です。

シナイ契約というのは古い契約でした。しかし、旧約聖書エレミヤ31:31には、新しい契約について記されています。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。」それは、神がこの世に救い主を与えて、救いを完成するという契約です。そのしるしとして、イエスは聖餐式を制定されました。

当時の食事とは、とても七面倒くさいものでした。家長は手を3回洗い、レタスを塩水にひたすという儀式をします。塩水はシナイ半島モーセの海を指し示しており、旧約聖書の最初からあったことを儀式に意味付けておいているのです。それは、一つ一つが礼拝であり、象徴でした。それらを通して黙想し、神の守りを心に留めるのです。私たちが日曜に礼拝を捧げるときも、最初に招詞があり、造り主なる神からの語りかけを聞くということがあります。そのように、礼拝式、聖餐式は、過去の恵みを思い起こし、未来の希望と記憶のために行います。

脳の研究をされているある学者が興味深いことを言っていました。人はどのようにしたらクリエイティブな仕事を出来るようになるか。新しいものをどんどん取り入れることだろうか。否、今まで経験してきたことを何度も繰り返すことによって新しいものが生まれてくるのだ、と。

神が最初に、全てを完全に与えているのです。完成作品があり、新しいものなど一つもありません。もう一度その恵みを思い起こし、噛み締めていくことによって次のことが出てくるのです。新しい恵みを発見するには、昔のことを思い起こすのです。

ずっと前にご主人を亡くされたある女性が言われました。自分はもう相手もいないことだし、夫婦関係について神から学ぶことなど既に何もない、自分には関係のないことだと。本当にそうでしょうか。ご主人との関係を思い起こし、そこに神が確かに働いていてくださったことを思い起こす、それが未来に繋がるのです。そこにある意味をもう一度思い返しつつ、祝福されてきたことの確認をするのです。

もし、100年間、その恵みを知らないで生きてきたとするなら、今、100年分思い返すことが出来るのです。現在というピンポイントの話ではなく、過去イエスと共にいたことを確認しながら、未来の希望へと繋ぐ、現在はその分岐点に過ぎません。

十字架で流されたイエスの血の象徴として、聖餐式で杯を取ります。イエスの血とはすなわち、未来の保証です。アフリカやヨーロッパなどの国旗には、白、緑、赤色がよく使われていますが、赤色は大抵血を象徴しています。自分達が血を流して自由を得てきたことの象徴として、それを堂々と描くのです。血とは、私たちがイメージするようなドロドロしたものではなく、忘れてはならないものです。

契約。人間同士の信頼関係では、破られることもあります。しかし、イエスとの信頼関係は破られることがありません。しかし、27節「あなたがたは皆わたしにつまずく」とイエスは言われます。教会生活は「天国の前味」と言われます。教会生活が本当に天国のように何も問題がなく素晴らしいかということになりますが、そんなことはありません。イエスは約束をされただけです。車を買うときに契約をしますが、現金で即現物をもらうなら、契約の必要はありません。契約をした後、現物が手元にやってくるまでの空白期間に、私たちは不安になったり、イライラしたりするものです。しかし、そこにこそ契約書の意味があります。

やがて来る神の国の完成。その時、人は本来の造られた姿になります。今の世は罪の支配下にあり、悪魔の働きが許されています。「わたしにつまづく」とはイエスを裏切るということです。ゼカリヤ書などの預言書によって、それは分かっていたことでした。神の摂理としてあること、とイエスは受け入れておられたのです。そして主は言われます。「しかし、わたしは復活した後、あなた方より先にガリラヤへ行く」 いらっしゃい、そうすると解るから、と弟子達に語られるのです。

神は空手形を出すような詐欺師ではありません。イエスは、弟子達の成長をこと細かく見てくださっているのです。ガリラヤに来なさい。そこでわかるから。あえて努力をさせるのです。弟子達に決断をさせます。訓練を受けさせ、自分で問題を乗り越えられるようにさせるのです。

ペテロは、言い張りました。31節「たとえ、ご一緒に死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」 自分だけは大丈夫、などと言っている間はダメです。この後、イエスの言ったとおりに、ペテロは主を知らないと3度いう事になります。

他の福音書で、イエスはこう語っています。「立ち直ったら他の人を力づけなさい」また、甦られた後にペテロに「わたしを愛するか」と3度聞くという場面があります。これは、イヤミとしてペテロに言ったのではありません。ペテロの回答が、一回ごとに変わってくることに意味があります。3度聞いたことは、ペテロへの愛情からなのです。

イエスは、私たちの失敗、罪、そのものを全てご存知です。しかし、絶対に私たちを捨てることはありません。「先に行って待っているよ」と語ってくださるのです。私たちがペテロのように弱く、がっかりして逃げてしまったとしても、です。

タイトルの「終わりの日」とは、十字架の日のことを指してつけました。イエスは、ご自分の最後の時まで、弟子達がどうやって成長していったらいいか、人々がどのように救われていったらいいかをずっと配慮し、考えておられたのです。私たちも、死の直前まで、救いの経験を思いつづけること、また、先に救われたことの意味を考えつづけることが大切です。

教会の外にいる、圧倒的多数の人々に対して、イエスによって生き生きと生きるためにどうしたらいいかを考え、伝えること。主の晩餐は、弟子達への最後のアプローチでした。