2008年8月15日金曜日

決断するイエス(マルコ48)

第48回目 マルコの福音書14章32節~50節(2008年8月10日)

「決断される主イエス」

***一同はゲッセマネという所に来た。イエスはひどく恐れてもだえ始め、地面にひれ伏し、出来ることならこの苦しみが自分から過ぎさるようにと祈った。「しかしわたしが願うことではなく御心に適うように」と。弟子達のところに戻ると彼らは寝ていた。3度目に戻ってきて言われた。「まだ眠っているのか。良い、時が来た。わたしを裏切るものが来た。」そこへユダが祭司長や律法学者らとやってきて、イエスに口付けをした。それを合図に人々はイエスを捕らえた。弟子達はイエスを見捨てて逃げてしまった。***


オリンピックが行われています。華々しい開会式などが話題になっていますが、その裏で、オリンピックのために排斥された多くの人々のことも聞いています。ミャンマーでは、軍事政権の裏で、多くの人々が苦しい目にあっています。このように、人が人を酷い目にあわせる、ということは特異なことではありません。昔から普通にあったことです。ここでは、12人の弟子の一人がイエスを裏切りました。普通に読める事柄です。しかし私たちは不思議に思うことがあります。もう少し、イエスは強くてもいいのではないか?と。

一同はゲッセマネという地にやってきました。ここは聖なる地であり、当時は「聖なる地には肥料をまいてはならない」という風習があったようです。イエスは3人を特別に連れ出しました。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人です。そして、恐れもだえ始められました。「悲しみのあまり死ぬほど」だと。そして、寝転がるように、ひれ伏して祈られたのです。

なんと弱々しい姿ではありませんか。イエスは神であるはずなのに。苦しくて、悲しくて、絶望のただ中におかれているイエス。36節「この杯を取り除けてください」と神に願い、弟子達に共にいてくれと頼んでいます。ところが弟子達は眠気に勝つことができず、「ひと時も起きていることが出来なかったのか」と主にたしなめられます。

なぜイエスはこんなにも弱いのか。それは、「神だから」です。彼は、本当(完全)の神であり、本当(完全)の人間でした。半分ずつではありません。神学的には神人2性論といわれます。では、イエスの神らしい部分とは何でしょうか。水の上を歩いたこと。多くの人々を癒したこと。では、人間らしい部分とは?ラザロが死んだ時に涙を流したこと。ゲッセマネで苦しみもだえられたこと・・・そのように私たちは答えるでしょう。

今日の箇所のような場面こそ、神らしい部分を出した方がいいのでは、と考えます。しかし主は、「終わりが来る。何時来るかはわたしも知らない」と言われました。限界の中にいることを良しとされたのです。十字架にかかることが痛くないようにされたなら楽でよいでしょう。まるで手術の際に麻酔を打つように。しかし、主は人と同じ痛みを持つのだということを決断されたのです。苦しみを受けること、それは、私たちと同じようになるという決断です。神であるのに、同じ限界を持つことを良しとされた。それは、私たち人間には絶対に出来ないことです。

私たちは、子供と同じ気持ちになるということは絶対出来ません。どこかに親の傲慢さがあるのです。ましてや、神と人間の差は、造ったものと造られたものの差です。陶器師と陶器くらいの違いがあるのですから、同じ気持ちになどなれるはずがありません。本当のへりくだりが出来るのは神のみなのです。
人間は、本当は知らないことを知っているかのように語るなど、相手の立場に真実に立って考えることなど出来ません。本当の意味でへりくだることは出来ないのです。

では、本当の人間とは、どのような姿をいうのでしょう。それこそ、イエスが水の上を歩かれたあの姿です。本来の人間の姿を示されたのです。天に行った時、限界が無くなった時に、私たちはそれが出来るようになるのです。神の姿とは、こんな限界の中で苦しみぬくことを選ばれた、わざわざ降りていく生き方を決断されたその姿が神です。そうだとすれば、私たちは考え直さなければいけないことはたくさんあります。

私の認識、知恵、そのようなもので物事を判断しているなら、やめなければなりません。ガラテヤ人への手紙には、新創造について書いてあります。私たちは完全に造り変えられたものです。レベルアップではありません。少しはマシになったという、そういう段階の話ではありません。わたし自身も、その隣人も、自分が考えている「その人」ではないのです。神に造られた自分であり、隣人です。

36節「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取り除けてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」41節「時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」イエスは十字架を決断し、受け止めています。裏切り者のユダがやってきて、イエスに口付けをしました。よく中東の人が頬をあてる挨拶をしていますが、それを指します。ギリシャ語では、44節「聖なる口付け」の意味ですが、45節の口付けについては、「恋人同士の口付けの意味」の言語が使われています。ここではもはや、ユダは師と尊敬しての挨拶ではなく、汚いものとしてわざわざ言葉を変えています。

ある者が、大祭司の手下の耳を切り落としたとありますが、ヨハネの福音書によれば、ペテロがやったといわれます。マルコがこの文章を書いているのはAD40年頃、はっきりと誰がやったかを書けば、ペテロの命が危ないということがありました。ペテロは最後までイエスを守ろうとしていたのです。それは私たちにとっては慰めです。

49節「これは聖書の言葉が実現するため」とイエス。ここにも決断の姿が見て取れます。聖書が実現するため、それは、私たちが存在することもそうです。主を信じ、生き生きと生きていくことは聖書が実現するためです。自分の認識ではなく、神によって与えられた命、自分、あなたであることを知るときに、今まで考えられなかったような希望が与えられます。

私たちの感覚はこの世にあって麻痺しています。最近破綻したある施設は、もともと市のバックアップがあったとかで、再建に向けての議員の諮問会議が行われましたが、それに出席するだけで月給20万が支給されたといいます。市民アンケートをとったところ、これについて「高いのでは」と意見する人は、わずか3分の1でした。また政治の予算には、特別会計というものがあり、表に出ることはなく、報告すらしなくていいものだそうです。それでも、お金が無いと言っている。そして原油高についても、だんだんと普通になってきています。穀物を買って投機の対象にしたその瞬間から何万人の人が飢え、死んでいくということを私たちは忘れています。

冷静に見つめなければなりません。そのままにされておくこと、それは最も大きな神の裁きなのです。罪の結果を自分で受け止めていけという神のメッセージでもあります。私たちは、この世の大きな罪の濁流の中で、イエスの言葉にハッとさせられるのです。

今日の箇所はとても絶望的に感じるところです。しかし、「聖書の言葉が実現するため」というその視点から全てを見ることが出来るのです。そこから、自分を、そして隣人を見ようではありませんか。そして、発見し、新しく造られていることに気付くのです。生活の中で、それを感じ、実体験していくことが出来るようにと願います。